この夜が明けるまであと百万の祈り

とあるマンガ好きの備忘録です。私が元気づけられた出来事や作品について少しでも共有できたら嬉しいです

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GRIDMANは、アカネがユウタを刺した瞬間がものすごい好きです

僕にその手を汚せというのか(タクティクス・オウガ)


読みました。こういうのすごくいいね!
作品そのものを楽しみたいという欲求と、一方で作品に煽られる形で否が応でも湧いてくる文脈読みの間の葛藤。これをどちらがいいと言い切るのではなく、両者を行き来しながら己の葛藤の問題として語ってくれてるのとても良い。

数年前のはてなでは、こういうエモい語りが自然とホッテントリして意識しなくてもたくさん読めたのに、最近はこういうのが全然視界に入らなくなってしまったので、とても懐かしいです。(ちなみにこれは私の観測範囲の問題であり、ホッテントリ外で一話ごとにアニメを熱く語ってる人は今でも健在です)



ごめん。以下については途中で書くの力尽きた。文章で説明するのはしんどすぎるので、もしかしたらツイキャスの方で話するかも。

GRIDMAN、何も考えずに観てもすごく楽しい作品だったけど、文脈語りもしたくなるよね

まず最初に。私はリアルタイムで視聴しているときは特に何も考えずに六花かわいいなぁ。バトルかっこいいなぁ。と思いながら楽しんでいました。実際「見ているだけで楽しい」ってのは素晴らしいことだと思う。私は今アニメを見てるんだーってのを感じられて良かったです。

ですが、ストーリー面ではかなり微妙な作品だったとも思ってます。アカネちゃんが主人公を刺すというシーンがなかったら救いようがなかった。

わたしはグリッドマン原作もエヴァのことも全くわからないので、GRIDMANについて語ろうとすると、
「スマガ」のアリデッドとかと「ひぐらしのなく頃に」とかを強く意識してしまいます。

私はエヴァンゲリオンをリアルタイムで体験しなかったし、今でもエヴァンゲリオンのことはよくわからない人間なのでGRIDMANを見てもエヴァの影響がーとかガイナックスがーというのは全然わからない代わりに、私はエヴァの影響を受けたといわれるエロゲーが好きな人間だったのでGRIDMANを見て思い出したのは「スマガ」(2008年発売)と「Baldr Sky(2009年発売)」、それから「ひぐらしのなく頃に」あたりと比較して考えちゃうわけですね。

エヴァにはまったり、このあたりの「ループもの」作品を経由してない人からすると、GRIDMANが何を<描いてないのか>ってたぶん全然わからないと思います。そのくらいGRIDMANって、視聴者に余計なことを考えさせないようにいろんなものを丁寧に省略というかステルス化してくれてるんですよね。一蘭の「味集中システム」みたいな感じで、キャラの可愛さやド派手なバトルに集中できる作品になってたと思います。

世界設定自体は結構重苦しいものがあるし、それをにおわせては来るんだけど、頑張って謎を解いたり、その世界の構造が持つ意味を真剣に考えない。「これはそういうものとして納得してください」とか「そういうのは考えたい人だけ考えてください」という感じでそこはメインにすえていない。「いまどきそんなもの真剣に考えて描いたところで若者には需要ないんだよ」ということでしょうか。

メタメタするのはいいけどユウタとアカネの感情は全然こちらに響かなかった

あくまで「ひぐらし」とか「スマガ」と比べると、という話なんですが。

GRIDMANっていろんなものが「間接的」ですよね。きわめてメタメタしい。痛みや恐怖といったベタな感情や、破壊行為の責任がユウタや新庄アカネに乗っかってこない。

まぁ、もともと原作におけるグリッドマンとアレクシスの戦いがベースであって、あくまで「SSSS」での出来事は代理戦争ってことだろうから仕方ないのかもしれないけど、そういう文脈は私は知らないので、単にメタメタしいなと思うだけです。


主人公であるユウタがまず感情薄いよね……。怪獣の攻撃を受けて消えてしまうのは、主人公にとってはたいして重要でない人たち。「ひぐらし」で言えば1年目の被害者である現場監督みたいなもの。敵の正体もさっさとわかってしまうし、主人公自身は戦う力があるからやられる恐れもあんまりない。そこに強い感情は感じられない。アカネを救おうとする動機もユウタ自身には強く存在しないよね。アレクシスを倒したらついでにアカネを助けることになる、ってのはなんだかとっても微妙。


新庄アカネ側から見ても激しい感情はない。人を殺しているといっても壊しているのも自分が作った世界のパーツ。彼女がやってるのは怪獣をデザインしているだけ。しかもその責任もアレクシスが引き受けてくれる。生活臭のない部屋にゴミだけが積もっている描写などを見ても徹底的に空虚。アカネはGRIDMANとのバトルの時だけ少し感情を見せるが、あくまで戦っているのは彼女ではない。ソシャゲでオート戦闘をやってるのを見てるようなもので、ダメだったらまた新しい怪獣を創ればよいという程度の感覚。動機レスだよね。「そういう能力を与えられたからそうする」という程度の存在。能力的には最強なのに、存在として弱すぎて「ラスボス」として認識できない。「レベルE」の、王子が作った魔王様みたいなやつを思い出す。挙句、悪いのはアレクシスのせいにできてしまうという至れり尽くせりぶり。ちょっとやりすぎじゃないですかね。


新庄アカネの「感情」は、一点を残してすべて六花とアンチが担う

ユウタ側もアカネ側も、こいつらだけが自由に意志をもってそれを行使できるのにどちらも「役割」しか持ってない。この作品の「感情」は六花とアンチくんに依存しており、六花とアンチくんが居なかったら「構造」しか感じ取れない。視聴者は、六花の存在を介して初めて「消された人に対して」想像力を働かせることが出来るけれど、それもあくまで間接的なものであり「想像力を働かせる六花はいい子だな」くらいの感想にとどまる。自分自身が脅かされたり、身内が消えてしまうよな恐怖を感じ取ったりはしない。アンチ君もそうで。暑苦しいまでの目的意識や執着を持っているのは本作品で彼だけ。本来主人公が発揮するべきものは彼にアウトソーシングされている。

まぁ、「本当の新庄アカネ」はこういう優しさや強い目的意識を持った人間であり、心の中の世界での出来事を通じてそれを自覚するっていう設計なんだろうけれど、視聴者的にはどうでもいいことです。


こんな感じで、メインのユウタと新庄アカネは生々しい感情や複雑な世界の事情から守られ(遠ざけられ)、各話ごとにノルマとしての戦闘をこなす。しかし、戦闘の描写はめちゃくちゃレベルが高いのであんまり気にはならないのがすごい。


才能や役割に縛られて感情が後ろに引っ込んだキャラクターがメインを張って物語を引っ張るという作品だと「アルドノア・ゼロ」を思い出すけれど、こっちの作品は逆に最後に感情をむき出しにする展開を際立たせるための仕掛けだったのに対して、GRIDMANはなんか一つを除いて(アカネがユウタを刺すシーン)最後まであんまりそういう強い感情を感じるシーンがなかった。

これって、やっぱり「こういう生々しい感情っての描写は純粋にバトル描写や女の子の可愛さを楽しむ際には邪魔だし、そういうめんどくさいことを考えながらアニメ見るのしんどいからオミットした」って感じなんかな。よくわからんけど。


だからこそ、あの刺突シーンすごい好き。そこだけ何回も見返してる。




以下完全に力尽きたので書きたいところだけ書いてます。何言ってのかわからないと思うので読まなくていいです。

ひぐらし」について

主人公にいろんな可能性や痛み、直接の感情を体験させることで、本筋の体験価値を上げる「ループもの」の構造について強く自覚的だったのがひぐらしのなく頃にだと思う。

最終話「祭囃子編」だけ見ても、真の主人公や「新庄アカネ」的存在についてあんまり強い感覚を持つことはなかったと思う。あの作品を楽しいと思わせてくれたのは、それまでのループにおいて、各話の主人公が当事者として強い感情を積み上げてきたからだと思う。

ラスボスも、自ら手を汚す漆黒の殺意を持っていたし、ラスボスとして立つに足る動機も積み上げられていた。XYZルールの複合がもたらす「ラスボス感」はとても強かった。当然負ければすべてを失うという構造も分かり易かった。

「スマガ」について(これプレイしたことある人ならグリッドマンで描かれていないものが何かがわかるはず。ちなみにくっそ時間かかります)

こちらはプレイヤー側と、観客側の両方を体験した上で判断させられる。そのうえでちゃんと「新庄アカネ」的な存在を発見し、理解し、許すというか「世界内の人間の力によって世界外にいる新庄アカネを助ける」というハチャメチャな展開になる。新庄アカネが抱えているものというのはそのくらい重たいし、簡単に許されるものでもないし、そのあたりに関するGRIDMANの描写ってもう本当にあっさりしてたよね。シナリオのメインであるはずの部分が「原作グリッドマンへのオマージュ展開のおまけ」という展開って、それこそ新庄アカネが好きという人間こそ怒るべきだと思うんだけど?


まぁスマガでもハッピーエンドが優先されて「罪と罰」の問題は棚上げされたんだけどね。あんまりここをまじめにやると、fate heaven's feelのノーマルエンドとかになってしまう……。


思い人を自分の世界に閉じ込めて、散々邪魔をして、それでも自分を迎えに来るのを何百、何千、何万年も待っていたなんて。しかも自分以外に走った思い人や途中で諦めた思い人はそのままに、どんどん量産して。なんという執念、なんという情熱。

http://bofura.blog103.fc2.com/blog-entry-82.html

●●を悲劇に固定する構造は、「現実世界」のどこにも見いだすことができません。隕石は、悲劇の根元ではない。有里をして下位存在者を欲望せしめた原因は、迫りくる死ではなく、ただ自らの臆病さにすぎません。
 
セカイを俯瞰し、自らの存在者としての幸福ではなく、そこに起こる悲劇を無私でもって回避しようとする神の視点は、ここでは持つことができません。理不尽に対して怒り、悲劇と戦い、魔女エトワールたちをハッピーエンドに導くことを欲望してきたはずのプレイヤーが、なにを強制されるでもなく下位存在者を虐げてきた●●を救済しようと望むことが、それでもなお可能でしょうか。
 
現実世界において、行動力に溢れ、天文部の再建に成功し、後輩とイチャつき、告白され、かつての恋人たちを悲劇に縛り付けていた張本人をなんらの呵責なくあっさりと赦す「先輩」に感情移入することが、我々にできるでしょうか。

たとえスピカが、ミラが、ガーネットが、88人の魔女エトワール全員が彼女を許そうと、同じセカイに生きる「先輩」だけは、●●の横っ面を引っぱたいてやらなければならなかったのではないでしょうか。

http://catfist.s115.xrea.com/www.ero-gamers.com/03/moriyan.html

赫炎のインガノックについて

「倒すべきラスボス」と「救うべき対象」が分離しているという物語においてはこちらが最も近い作品だと思われる。
新庄アカネはこの作品のポルシオンほどに無垢な存在ではない。GRIDMANのシナリオにおいて新庄アカネを救済するならここまで持ってこなければいけないと思う。

「死の舞踏」や「通ゆく異形」は超名曲。


Sekien no Inganock - Dancer Across the Deadline


「Baldr Sky」について

お姫様度が最強クラスの作品。新庄アカネは世界の神様であるが、神様である程度ではこの作品の姫様度には勝てない。