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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「凡庸な悪」あるいは「透明な存在」について

己のささやかなプライドを大事にする。それさえできれば、結構人生に満足できると思う。今はまだ全然できてない。

「凡庸な悪」あるいは「透明な存在」について

昨日に引き続いて「papa told me 20巻 EP95 ホワイトピーチ・メルバ」より

「どうしたんだ、知世?」
「眠れないの。眠ろうとするとあの(お父さんの悪口を言ってたやつの)やーな大笑い声が浮かんできてムカムカしちゃうの」
「困ったなぁ」
「私のハートはもういいやと思うんだけど、私のプライドは許さないの。…プライドってめんどくさいものだね」
「でもお父さんはプライドの高い知世がいいと思うよ。」
「え?」
プライドっていうのは、自分がいちばんだって偉そうにすることでもなく傲慢な態度を取ることでもなくてたとえば知世が何十億人の人たちの中でほかならぬ知世であるために必要なものだと思うんだ。
「IDカードみたいな?」
「そうだな、でももっと重たい。旅行かばんのようなものかな。すべての人があらかじめかならず1つずつ持ってる。
 型はそれぞれ違っていても重さは皆同じなんだ。女の子も男の子も、大人も、子供も。
 持って歩くのはなかなか大変だ。だからこんなものは邪魔だと思ったら捨ててしまってもいいわけだ。それがその人の意思ならね。
 でも中にはとんでもないバカなおせっかいがいる。"君は小さな女の子だから、こんな重いカバンなんかもっちゃいけないんだよ。必要ないんだよ"なんていうやつだ。」
「はりたおしていいのね?」
「うーん、、、まぁ」
「お墨付きがでたわ」
「それから、みんなのカバンをまとめて持ってあげようという人も出てくる。大きな一つの荷物にしてしまおうってね。それは楽ちんだけど、とてもこわいことだ。どこに運ばれるかわからないんだから。
 やっぱり自分のカバンは自分一人で持たなきゃならないんだ。だから、知世のカバンをお父さんが持ってあげることもできない。
 お父さんがやれるのはせいぜい知世がカバンの重さに負けないようにたくさんご飯を作ることくらいだな」
「やっぱり腕力よね」
「精神的な、ね」
「ムカつくことがあったら、ちょっと考えてみるといいんだよ。どうしてそんな気持ちになるのか。それは自分のことを知る手立てになる」
「キーっとなるのも無駄じゃないんだね」
「そう、その上でやっぱり言うべきことがあると思ったら冷静に対処すること」
「それでもわかんない奴だったら、張り倒す!」
「……どうしていつも、そこに…」


……
………

「わかった!」
「え?」
「お父さんを悪く言われると自分のことよりすごく頭にくるのは、お父さんが一番大切なポイントにいるからだわ。知世が知世であるための。
 そう思えば、重いカバンもへっちゃらだわ」

この会話は、「涼宮ハルヒ問題」の先取りでもあるとも思う。自分が特別であるために必要なのは何か。人によってはそれは他者との差別化や目に見える特別さかもしれない。でも、私は「ここで語られる」己のプライドのことだと思う。つまり自分が自分であるために何が必要であるかを知って、それを大切にする心だと思う。(その己のプライドのありようをpapa told meでは別のところで「わたしはね、わたしのために、かわいいの」という言葉で表現している)私は、そういうプライドの有り様をしている人を尊いと思う。
また、この「ささやかなプライド」の尊さは「鈴木先生」で有名になった武富健治先生の「掃除当番」という短編作品に凝縮されていると思っていて、私はこの作品がめちゃくちゃ好きです。




「自分に自信がなさすぎるとつい承認の源を他者に委ねてしまう」のだけれど、その道は地獄だという話。

ところで私はプライドが低い人間は自己承認の起点に自分が存在しない = 行動原理が自分を大事にする方向に働かないと勝手に思っている。主語が大きすぎるし論理が乱暴すぎるし異論は認める。むしろどんどん論破して欲しい。


私が最もプライドが低いと思っているのはネットで炎上を繰り返す人だ。この人達は極端に「上の意味での」プライドが皆無に近いと思っている。これについて今日、よくはてなtwitterで炎上しまくってる人がとても大事な記事を書いてくれている。私は彼の9割以上について否定的だが、こういうことを書けるところが好きだった。彼についてはこういう記事が評価されて欲しかった。

根っから自分と自分の才能を根本的に信じてない。

けっこう尽くす男よ?僕は。でも、それはその人が「自分を承認してくれる」ところから来ていて、承認を失わないためにどれだけでもがんばらないといけないから可能な限りのことをしようとしてしまう。(多くの場合、執着が強すぎて空回りする

何かしらの成功や実績、他人からの承認がないと「虚勢を張るほどの自信すらない人間」だから、ハッタリや根拠の無い自信がないとできないゲームが根本的にできないのだ。そして、僕自身にそんな機能がない。

自分の才能や自信を信じない人は自信の源を喪失した自分の姿なんか想像できない。だから、可能な限りうまく行った時のスタイルは変えたがらない。

数字のない「個人的な好き」を褒められると…けっこう辛い。僕の行動原則に矛盾しちゃうから。また、数字を出して自分なりにまともなものを書いたのにバカにされるとこれもこれで行動原則に反するからけっこう辛い。

漠然と好きなモノ・したいことを問われた時に答えられない。僕にとっての行動原則は「数字を出す」「承認した相手に尽くす」とかで、自分の希望に価値なんか感じてないから。価値を感じない結果、「嫌なものはあるけど、好きなものを考えるのはやめた」という思考構造になってる

彼の日頃の傲慢極まりない態度や平気で人を傷つける発言を繰り返すクソみたいな言動を見ている人からすると、「どの口でそんなことをいうのか」と思うかもしれないけど、でも私は彼がとても正直に語っていると思う。本心からこれを言っていると思う。少なくとも彼の中での真実ではあるだろうと思う。


実際に私は2年半前からそう思っていたしそういう記事も書いている。ちゃんと答え合わせができて、最後に少し報われた気持ちになった。
回りくどい自己承認が生み出す自意識の縛り - Why do you need ...?

自分の価値を、自分が認めた人からの承認という外部に置いているから、他人からどれだけ直接自分がおかしな人間であるかを指摘されても全く自分を省みることはない。キズつかないわけではない。むしろ脆い自分を直接叩かれるわけだから深く傷つく。その度にありとあらゆる人を恨み、嫌悪する。やさぐれまくりである。それでも受けた傷は「自分を批判する人たちよりもすごいと思っている人間の親友であること」を持って癒されてしまう。彼女は決して自分を改めようとはしない。 むしろ他人から批判される「変わった点」は「昔憧れの人から承認された要素」であり、それが自分の最大の価値であるという思い込みがあるから、絶対にそれを手放すことはできなくなっている。

あまりに自分に自信がなさすぎる人にとっては、自分で物事を判断するのはあまりに苦痛すぎる。だから、自分で考えることを放棄する。そこで、自分のカバンを他の人に預けてしまうとこんなかんじになるのではないか。つまりもはや自分で考えているつもりでも、考える事それ自体が不可能になってきているのではないか。(※精神科医でもなんでもない私が勝手に考えたなんちゃって理論ですのでみなさんはちゃんと「アダルトチルドレン」とか「毒親」とか「いじめられっ子の心」みたいなキーワードで本を読んでください。)

①自分に自信がない

②自分で自分のことを正しく認識できない、客観視できなくなる。

③自分が何かを評価する際に、自分の外部にある基準に支配されてしまう

④自己認識・他者認識が大きくズレる。大概の場合それは「自分を虐げた人」を憎みつつも服従するような形をとってしまう

上の作品において、チエミは何度同じ過ちを繰り返しても自分の行いを改めることができず、結局いきつくところまで行き着いてしまう。彼も似たような道を辿りそうでそこだけは心配だ。

相手に対する学習の停止(完成)はハラスメントの始まり - お前のことが好きやったんや
「ハラスメントに対する嫌悪」の感覚を共有するのは難しい - お前のことが好きやったんや
「ここまでは分かった。でもまだ自分に見えていないものがたくさんあるはず」という姿勢が好き - この夜が明けるまであと百万の祈り


いわゆる「アダルトチルドレン」のままで甘んじるのか否か

自分の生きにくさを両親に愛されなかった体験になすりつけて片付けている人を「アダルトチルドレン」と呼ぶ
中島義道「人を愛することができない」p123)

こういう状態になると、「自分が承認の源と定めている人から承認を受ける条件を満たしている限りは」他人から何を言われてもやめない。そして「自分が承認の源と定めている人から承認を受ける」ためならどんだけ傷つこうがそれを続けようとする。その方向が恋愛に向かったらストーカーやメンヘルヤンデレになり、ブログでの数字稼ぎに向かったら炎上の常習犯になる。違うのは方向だけで、どちらにせよ「自分で自分を承認することができない」「他人の操り人形」という部分は同じだ。

あるいは、もっとおぞましいバケモノになってしまうかもしれない。

私も今までこういう無力感をいやというほど味わってきたから上のようなボヤキに正直共感したいという思いはある。でも、こと自分事として考えた時に、絶対にこの無力感に負けるのが嫌だ。

SWAN SONG - Wikipedia

だからこそ、彼に対して過剰に批判的だったのだと思う。必死で否定しないと自分がその無気力に飲まれそうで怖かったのかも。ただ、いい加減彼を批判して彼をとっちめたところで意味が無いことはわかってる。彼のような負のオーラをまき散らす存在はある種の人間を惹きつけて引きずり込んでしまうことはもうしょうがない。(本当に恐ろしいのは「鍬形」的な彼ではなく「佐々木 柚香」的存在なのだけれどね。)

そろそろ私は彼を否定しなくても自分が自分であるために何が必要であるか自分で考えるべきだし、必要なもの=ささやかなプライドを守るためにやることは彼を倒すことではなくて他にやることがあるはずだと気づいてもいいはず。 というかほんとにそろそろ他人にかまってる余裕なくなってきた今日このごろなので、彼のことは任せたよー



最後に

黒い羊は迷わない」という作品がとても好きです。「花やしきの住人たち」と並んでマイ・ベスト4位。
こういう状態に陥った人間が、行き着く所まで行き着く前に、なんとか自分を取り戻すという物語に希望を感じます。
生きるのが辛い時はこの作品のp150-p151をよく読み返してます。




今回の記事は以下の記事から刺激を受けて書きました。迷惑なのでリンクは貼らないです。
ttp://tm2501.hatenablog.com/entry/2015/03/23/164734
ttp://crea.bunshun.jp/articles/-/7187
ttp://hase0831.hatenablog.jp/entry/2015/03/23/121458
ttp://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20150322/1426962270