この夜が明けるまであと百万の祈り

私が元気づけられた出来事や作品についてのメモ。当ブログでは記事を読まずにはてなスター頻繁につけに来る人はお断りです

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善魔という概念 (「正義のつもり」「良かれと思って」の弊害について)

昨日書いた小保方さん関連の記事を見ている時に「善魔」という概念と出会ったので簡単に紹介。

いかに正しいこともそれを限界をこえて絶対化すると悪になる。また逆に悪に見えることも限界内では善い部分がある。民主主義は正しい考えかもしれぬ。しかし、それを絶対化しすぎると民主主義ならざる国に原子爆弾を落とすような悪をうむ。自分がいつも正しい、正義漢だと思っている人というのも、知らず識らずに傲慢という罪を犯していると思います。なぜかというと、自分が正しいという気持ちは、かならず他人を裁こうとします。人を裁こうとする気持ちというのは、自分が裁く相手の心の悲しみとか寂しさとかいうことが、よく分かっていないことなのです。



一人よがりの正義漢や独善主義のもつこの暗さと不幸は今日、私たちの周りで、さまざまな形で見つけられる。こうした善魔の特徴は二つある。ひとつは自分以外の世界をみとめないことである。自分以外の人間の悲しみや辛さが分からないことである。もうひとつの特徴は他人を裁くことである。この心理の不潔さは自分にもまた弱さやあやまちがあることに一向に気づかぬ点であろう。自分以外の世界をみとめぬこと、自分の主義にあわぬ者を軽蔑し、裁くというのが現代の善魔たちなのだ。

http://bunsblog.exblog.jp/1475089

ネットのいざこざで、炎上とかサイバーカスケード現象が起きるとこれに似た話をする人多いので、今後はこの「善魔」という言葉を持っておくと何度も同じ話題の再生産にならずに済みそうですね。*1



http://www.kameyamaruka.com/entry/media

この記事読みました。 まさしくこういう「善魔」的な行動を戒めるような話ですね。

一般論としてみれば実に妥当だと思う。私も似たようなこと書いてます。基本的には意見はそんなに変わらないと思います。

「ここまでは分かった。でもまだ自分に見えていないものがたくさんあるはず」という姿勢が好き - この夜が明けるまであと百万の祈り

けれど、この人自身もまた、この記事では善魔の状態に陥ってますよね。

すでにあなざわさんがツッコミ入れてますが、「自分にとって抜けてる部分」が見えなくなった状態で偏った意見を言ってしまっている。他人の傲慢さを戒めようとするあまりに、意見が行き過ぎてしまって結局自分もまた別の形の傲慢をやらかしてしまう。そして、それを指摘する私も他の人から見たらまた善魔状態になっていると思われます。

せんだみつおみたいに「いいじゃないか」とまではいいませんが。人間ってそういうもんなんだと思います。 興味が無いことについては冷静でいられる。「正義ぶってそんなに攻撃するな」と言える。でも、自分が気に入らないことについてはついつい自分が正義側にたって言いすぎてしまう。そういう「自分」を棚に上げて語ったところで、たいして意味が無いんじゃないでしょうか。


大事なのは狭量さや頑固さをもっと寛容にしよう、ということであって「善魔」の指摘ごっこをすることじゃない

なにより上の記事みたいに、人がそれぞれ自分のことを棚に上げて他人の善魔の指摘ごっこをやり始めたらきりがないじゃないですか。

私としては、別に自分が多少傲慢であってもいいと思うし、自分が完全に善魔でなくなることはできないと思ってます。でも別にいいんじゃないですか? やり過ぎなければ。それは程度問題だし、度を過ぎてなければそれを指摘されて、そうだなと思ったら引き下がる、くらいの認識があればそれで十分ですよね。多分リアルではこんなこといちいち考えたりするまでもないと思うんですよ。みんなもっと適当にやってる。


ではなんでネットだとこういうことがしょっちゅう問題になってしまうのか。



常識や一般論をベースとして持つのはとても重要だけれど、個別の話はちゃんと具体的に考えよう

問題は、リアルだったり一対一の関係だとそんなに苦労せずにやりくりできていることでも、一対多や、多対一になるネットでは事情が変わる、ということですよね。「大人数に向けて発信する」ことが出来る代わりに「大勢からフィードバックうける」という状態になる。これをどう考えるかだと思います。

その気になればプラスにもマイナスにもレバレッジがすごく強いネット、という個別具体的な事例において、自分が安定して運用できるのはどのくらいの強さなのか、自分が許容できる範囲はどの程度なのか、それが大事ですよね。個別の話に言及するなら、もう少し一般論語って終わりじゃなくて、個別具体的に、他人を批判するよりまず自分事として考えたいですね。



ブログではあんまりそういう話は書きたいとは思いませんが。野次馬を呼び込むだけで何の得にもなりませんし。

*1:もちろん「状況を把握する」であるとか「自分への戒め」ためにつかうのであって、「他人へのレッテル貼り」に常用しようとする人がいたらそいつはカスんおで注意が必要ですけれど