この夜が明けるまであと百万の祈り

とあるマンガ好きの備忘録です。私が元気づけられた出来事や作品について少しでも共有できたら嬉しいです

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障害の社会モデル

今日も記事紹介だけ。

「LGBTってそこまで差別されてるっけ?私は別に気にしないけど」とか「発達障害ってそこまで生き辛いの?私は発達障害だけどなんとかなってるけど」みたいな声が話題になっていますが、こういう考え方への対抗を考えるときの補助線となる、「障害の社会モデル」という考え方を紹介している記事です。

私はこの概念には若干否定的ですが、はてなで差別や障害についての話にについて考えたことがある人なら知っておいて損はないと思います。

tarako-shuppan.com

障害者の権利運動における重要な概念 ─ 障害の社会モデル ─ を反映したものとなっています

障害の社会モデルは経済的、身体的、文化的バリアーによって障害者の社会への参加が妨げられているという視点を重視しています。 このモデルは機能障害(impairment)と能力障害(disability)を区別することでこの視点を重視しているのです:機能障害は生物学的な差異や制限のことを意味します。

一方で能力障害は社会の作り出す不利益であり、機能障害とは馴染みません。

これらの定義は万人に受け入れられるものではありませんが、ヴァイオレットエヴァーガーデンは障害にまつわる思い込みに対してしっかりと疑問を投げかけています。 能力障害は機能障害の必然的な結果であるという考え方や、社会の仕組みを変えることなく接するのが障害への対応の仕方であるべきという考え方にも疑問を呈しています。


ヴァイオレットの能力障害は一度も機能障害の必然的な結果として見なされたことはありませんし、ドールとして成功した際には一貫して社会の変化によってバリアーが上手く取り除かれたことが要因となっています

(中略)
いずれの場合においても、障害の社会モデルがテーマになっています。ドールはペンを使うべきだとか、無意識のうちに言外の意味を理解できるといった思い込みは、ヴァイオレットがドールになる上でバリアーになっていた可能性があります。実際そうはならずに、労働環境のおかげでヴァイオレットはドールになることができました。ヴァイオレットは一個人として学び、変化したのです。これを実現できたのは社会が変化してヴァイオレットを受け入れることができたことが大きな要因となっています。


注目すべき点は、障害を理解するために障害の社会モデルそれ自体が用いられることは稀だということです。社会的バリアーを特定して除去することに加え、障害者のための活動家は機能障害を適切に取り扱うことを求めており、機能障害は「制限」ではなく健常者のバリエーションの一つなのではないかという問題提議もしてきました。それにもかかわらず障害の社会モデルは未だに障害に対する社会の役割に関心を集めるための便利な方法という見方から脱却できていません。

この理論に基づくと「社会に存在するバリアーを取り除けば、障害は障害ではなくなる」という考えを導くことが可能です。

自閉症は治癒できない—つまり、自閉症的特徴を持った人はずっとそのままなのです。 しかし自閉症は治療することができます。ヘルスケアのプロによる治療も提供されていますが、自閉症の人が十分に社会に参加するためには、彼らがヴァイオレットのためにそうしたように学校や職場や文化におけるバリアーをまとめて取り除く必要があります。

日本は何かと「自己責任」という考え方が強いです。つい先日も、与党の議員が、憲法の建前を踏まえず「義務を果たすなら権利を行使してもいい」のような発言をしていましたし、それが党内では問題視されていないように見えます。こういう考え方を助長する「個人モデル」「医学モデル」に対抗するのが「組織モデル」「社会モデル」ですね。昨日紹介した「残業のメカニズム」も、問題を経営者個人や上司個人に背負わせるのではなく、その背後にある「組織学習」について知ろうという記事でしたが、発想は同じです。


以下は「障害の社会モデル」により興味を持った人向けの補足。
私はこの障害の社会モデルは面白いとは感じるものの、必ずしも手放しで肯定できるものではないと思ってます。

「人権」を守るために社会の一員としてわれわれがどういう義務を背負うかという話でもある

本当に「どんな人でも生きる権利がある」を実現するためには、社会はそのためにバリアを取り除き続ける義務があるという話になる。

http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/1418/00071393/2-1_7-8.pdf

社会モデルの考え方は、個々の障害者が直面する問題を、徹底して社会の文脈で捉える思想であり、運動における武器でもあった。駅の改良にせよ、教育や就労をめぐる闘いにせよ、個人の努力や周囲の支援に頼るのではなく、社会の側の責任として解決すべきだと運動は主張してきたし、その認識を社会一般に広めようともしてきた。

「義務を果たすなら権利を主張してもいい」という言説に対抗して人権を主張するというのは、逆に言えば常に、障害者に限らず、人に与えられている権利を妨げる「バリア」を私たち一人ひとりが社会の一員として取り除き続けることを求めるという話である。

(寛大は)他者のためによいことをしたとしても、自分たちにはなんの得もない。(連帯は)他者のためによいことをするとき、同時に自分にとってもよいことをしている。
「施し」「他人事」と考えず、社会の構成員が「過重な負担」にならない範囲で少しずつ配慮し、これを積み上げていくことが求められる。

https://www.tkfd.or.jp/research/disability-education/nysmqj

差別解消に関する動きは、「お互いが」この考え方を前提にしないと分断を強めるだけで前に進まないんじゃないかなぁと思う。



2016年4月から施行された「障害者差別解消法」も同様の趣旨に基づいている。
障害者差別解消法リーフレット - 内閣府

少数である障害者が日常生活や社会生活を営む際の「社会的障壁」を除去するため、多数を占める障害のない人が「過重な負担」にならない範囲で、対話→調整→合意のプロセスである「合理的配慮」を取ることを義務付けた法律である

言い換えると、個別の事情に応じて当事者同士の対話→調整→合意を重ねることで、社会全体で「相場観」を形成していくアプローチである。これまでの障害者政策のように国の基準で一律に判断するのではなく、対話→調整→合意のプロセスを通じて、障害者だけでなく、障害のない人も満足できる「解」を見出すのが合理的配慮の本質である。

こちらについてはいろいろと問題があるのですが。
tyoshiki.hatenadiary.com


フェミニズムとの関わりも重要です。

②社会モデルは、障害者個人の問題は集約されると説く。だから、その共同性を根拠として、社会に働きかけるという指向が強く出てくる。しかし、運動を展開するにあたり集約が可能で共同性を獲得できる生きづらさとは、制度的障壁が生み出すディスアビリティである。社会モデルはインペアメントにかかわる生きづらさを、個々の障害者が対処すべきもの、個人的責任の問題とした。つまり、運動重視の指向から、ディスアビリティをめぐる共同性確立の反面で、障害者各人が経験するインペアメントにかかわる苦悩は放置されたとフェミニスト障害学は批判したのである。

http://www.r-gscefs.jp/pdf/ce10/sk01.pdf

社会モデルとフェミニズム障害学はなかなかおもしろいです。


国によってアプローチが違うのも特徴的です。

「障害を制度的障壁としてとらえ、障害問題を『機会と結果の不平等』問題として扱う」
あるいは
「障害を社会の偏見的態度としてとらえ、障害問題を『(結果ではなく)機会の不平等』問題、すなわち『差別』問題として扱う」

といった、「障害」というものの本質を外部に求める「社会モデル」という考え方がある。
 
特に前者はイギリスで発展してきた社会モデルであり、後者はアメリカで発展してきた社会モデルといえる。

http://www.f.waseda.jp/k_okabe/semi-theses/1406yusuke_iijima.pdf

障害者がそれまで社会的に隔離されたり、抑圧されることが当然視されてきた状況からの開放や、あるいは今回提示した「内面の障壁」を考える上で「変革すべき社会」の要素としてとらえなおす

この考え方(特に後者)が、どれほど受け入れられがたいものであるかは、「差別」についてのネットでの議論を見てたらわかりますよね。