この夜が明けるまであと百万の祈り

とあるマンガ好きの備忘録です。私が元気づけられた出来事や作品について少しでも共有できたら嬉しいです。 ※記事を読まずにはてなスターを押して回る行為はお断りしております。

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「バリアフリー社会を目指すべき」と「目指すやり方が気に食わない」は分けて考えましょうという話

「しばらく多様性を見慣れなくなれば、人類はたちまち多様性を理解できなくなるでしょう」
ジョン・スチュアート・ミル


http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170628/k10011033261000.html

話は論点は2つで

バリアフリー社会を目指すべき」かどうかという目的の部分と
「目指すにしてももっといいやり方があったんでは」という部分ですね。

バリアフリー社会を目指すべき」という点

バニラ・エアが批判される要素があったとすれば、この部分で不十分があったという点に限ると思います。
そして、逆に言うと今回騒動を起こした人はこの点においては支持される、というのもわかります。

目的がまずベースに成るのはわかります。


私の中ではこのあたりの記事がそういう話をしてますね。
正論(コア)とその手段の選択について - この夜が明けるまであと百万の祈り
かむろば村へ(ジヌよさらば) - この夜が明けるまであと百万の祈り
「個々人が対処すればいいだろ」を言いすぎるのはちょっとマッチョかな - この夜が明けるまであと百万の祈り


その目的を達成するためならどんな手段を選んでもよいのか、という話

とはいえ、はてブでは気持ち悪いくらい「目的」が正しいことを主張して、目的を否定せず、手段について批判をしている人に対してまで「差別主義者だ!」みたいなことをいうコメントがいくつもあってこれはさすがに気分悪い。何でもかんでも「差別」認定して、攻撃するのはやめて欲しい。

ローザ・パークス(バスの人種差別座席に抵抗)や
全国青い芝の会(バスの車いす乗車拒否に抵抗)

の話をしている人がいて、それはちょっと違うんじゃないかな……と思うんですよね。



私は正直、今回の活動自体にはそんなに違和感は感じてないです。ただそれに乗じて、「この話受け入れないのは差別主義者だ!」みたいに暴力を振りかざす人は、明らかにこういう問題を解決しようとする人たちの邪魔だと思います。



この武器は、事の本質から、広まっている意見に攻撃を加える人に与えられていません。彼らは、身の安全を確保してその武器を使うことができないばかりか、できたにせよ、自分の主義主張に報復を受けることにしかならないでしょう。一般に、広く受け入れられている意見と相容れない意見は、考え抜いた温和な言葉づかいや、不必要に気分を害することを細心の注意を払って避けることによってしか、聞いてもらえないのです。こういう注意からほんの少しはずれただけでも、地歩を失わずにすむことはほとんどありません。いっぽう広く受け入れられた意見の側では計りようのないほどの悪罵を浴びせ、反対意見を明言したり、あるいは反対意見を明言している人の意見を聴くのを、まったくもって人々に思いとどまらせているのです。だから、真実と正義の利益のためには、この罵倒する言い回しの使用を抑制することが、他の何ものにもまして重要なのです。それで、例えば、どちらか選ばなければならないのなら、宗教への罵倒攻撃よりも、不信心への罵倒攻撃を阻止するほうがずっと必要なのです

これは要するにマイノリティがマジョリティを批判したり攻撃すると、その何倍もの勢いで跳ね返されるからその戦略は良くないよってことです。もっというならば、「マイノリティが何か権利を求めるときは、お行儀よくしないと受け入れてもらえないよ」という身もふたもない話です。

私個人としては、これは正しいことではないと思う。マジョリティがマイノリティの意見に耳を傾けるべきだとは思う。


とはいえ、ナコルル騒動の時に散々みたと思いますが、たとえ目的が正しかろうと、そこで暴走して他者に過剰な攻撃を加えるような人は、もう目的と手段が反転していると思います。さすがにそこまでは支持できない。ああいう態度で過激化するまで追い詰められたのか、もともと頭がおかしかったのかはわかりませんが、そこまで来てしまうと支持はできませんし、この人達の中に別の差別意識を見出すでしょう。なにせはてなでは「差別」を主張するこの人達は「キモくて金のないオッサン」や「オタク」のような存在に対しては努力が足りないとかとかそういう罵声を浴びせる、という地獄のような展開が実際にありましたからね。そうなるとただの「ポジショントーク」となってしまい、もはや社会正義なんてどこかへ消え去ってしまったわけです。


こういう過激な方法でうまくいくのは「差別」という錦の御旗が通用する場合でしょう。そういう方法に頼った社会運動だけをやっていれば、社会運動家はますます煙たがられ、そして、「差別」という武器を持たない人たちの権利を狭めることで、ますますヘイトを生み出すことに成るでしょう。


目的がただしかろうが、手段がひどすぎる場合、手段を批判する人たちへの声を無視したり、手段を批判してるだけの人たちに罵声を浴びせるような人たちは、もはや「正しい」とは思いません。



おまけ

この件に関して紹介されていたリンクは後で見返したいのでここでも貼っておきます。


街に出よう -福祉への反逆-(前編)

【追記あり】「平等」と「公正」の大きな違いが1秒で納得できる画像 | BUZZAP!(バザップ!)

岸本元 on Twitter: "なんか最近「平等という建前で弱者も強者も老若男女構わず全員平等にぶん殴ってたら弱い奴から倒れるだろ」(大意)という意見を読んで、三原順「はみだしっ子」の「橋の下の例え話」を思い出した。こういうことなんだよな(白泉社文庫版5巻261頁) http://t.co/pf4fv0OEvG"

田中 一彦 on Twitter: "1977年川崎駅東口ターミナル。車イスでの乗車を拒否され続けてきた障害者が支援者と共にバスに乗り込んだ。バス職員、警官、市民、社会の罵声を浴びながら。だが彼らの struggle がなければ、社会は今も変わらないままだっただろう。 https://t.co/9p7u2zqSQX"

身体障害者の航空機単独搭乗の拒否と航空会社の債務不履行責任(平成20年5月29日判決)
http://www.senshu-u.ac.jp/School/horitu/publication/hogakuronshu/110/taguchi.pdf