この夜が明けるまであと百万の祈り

とあるマンガ好きの備忘録です。私が元気づけられた出来事や作品について少しでも共有できたら嬉しいです

【スポンサーリンク】

自分は差別主義者ではないということを強調したいあまりに、現時点での「差別の存在」や「支援の必要性」を否定してしまうことについて

昨日、同性愛が生物学的には「自然淘汰されるべき異常」などではなく「自然に一定確立で発生し、遺伝的にも否定されない因子」であるという話を書いている記事を読みました。

少なくとも「どちらの性別を相手に選ぶか」と「どのような性的欲望を持つか」とは、脳の中で別々に処理されていることが分かる。 私の考えでは、同性愛と異性愛は、きっぱりと白と黒に色分けできるようなものではない。無限階調のグラデーションを描いている

女性の同性愛者が淘汰されなかった理由は、人類の歴史の大部分で女性が自分の繁殖能力を自分でコントロールできなかったという点に尽きる。
(中略)
男性で3~4%、女性で約1%だ。これぐらいわずかな頻度で、しかし確実に、同性愛のほうが有利になる状況が過去の地球では存在していた。だからこそ、その遺伝的形質は淘汰されず、現在まで保存されてきたのだ。

「同性愛者は不自然だから悪だ」という主張は、二重に間違っていることになる。
・まず、同性愛者が不自然だという事実誤認。
・そして、自然かどうかから善悪を導こうとする自然主義の誤謬
この主張は完全に間違っている

この記事は生物学というよりは進化心理学に基づいて同性愛について考察している記事(もちろんかなりの仮定が含まれて居ますが)本当にすばらしいと思ってます。勉強になりました。ぜひ読んでほしいと思います。


そんなわけで、書き手のrootportさんは、私よりはるかに知識がある方であるのは間違いありません。しかし、同じ人がこういう記事も書いてるんですよね。(※古い記事だから今この人がこういう考え方かどうかはわからないんですが)

同性愛のカミングアウトが気持ち悪い件(周囲の反応が) - デマこい!

そうやってみんなが特別扱いをするから、同性愛はいつまでも「特別」なのだ。

同性愛は、たとえば「手フェチ」や「脚フェチ」と同一線上の性的志向のひとつでしかない。恋愛や性に関して、人間は本質的に自由である。自分の「性」をどのように認識しようと、そして恋愛対象をどのような相手に設定しようと、誰かから文句を言われる筋合いはない。したがって同性愛も、様々な「フェチ」と同等なものであるはずなのだ。

しかし現実には、そうではない。わざわざ改まった「カミングアウト」が必要になり、「勇気ある行為」と称賛される。現実の側が、人間の本質と一致していない。この不一致に私たちはもっと注意深くなるべきだ。

要はこれ、「私は同性愛について何の偏見ももってない」ということで言いたいんでと思います。

そんな俺からしたら他の人が同性愛を特別扱いすること自体が「間違っている」。今同性愛のカミングアウトを賞賛する動きは気持ち悪い。

そういっているのですね。

実は、昨日紹介した自民党案もこれに近い発想だと思うのです。

「同性愛といったって特別じゃない。私たちがちゃんとLGBのことを知れば、偏見もなくなるはずだ。問題はみんながLGBのことを知らないことだけで、啓蒙さえがんばれば問題は解決する。支援の必要性も無くなる。「同性愛者は何もおかしくない。だからそのことを啓蒙していくこと以外については支援は必要無い。制度なんかいらない。

だって。現に私は偏見なんて持ってないのだから」



こういう考え方をしている人からしたら、「私は差別主義者ではないからこそ、彼らの支援(特別扱い)に反対しているのだ」ということになります。



これ、一見それっぽいですよね。



たぶん杉田さんも、同じような発想で例の新潮45の記事を書いたのだと思われます。杉田さんは、自分がLGBTを差別しているなんてまったく思ってなくて「良かれと思って」ああいうことを書いているのは間違いないでしょう。だから「表現がまずかった」とか「受け取り手が私の意志をちゃんと読み取ってくれてない」としか思ってないはずです。



もし杉田さんがこのように主張したらみなさんならどう返しますか?

rootportさんの意見は、本質的には杉田さんと同じです。

では、たとえば杉田さんがこのように言ったら皆さんはどうしますか?

「みんなが同性愛のことをしって偏見をなくせば問題なんてなにもない」
「偏見のない私からしたら、同性愛者を支援することこそが、この偏見を長生きさせてしまう」
「支援なんて必要ないと言い切ってしまうことこそ大事だ」
「生産性がないって言葉だけまずかったからそこだけ撤回しておく」


実際に、LGBTのうちT(トランスジェンダー)の人たち、あるいはTであることによって社会的に苦しんでいるGIDの人たちの中には、LGBとTを明確に区別すべきであり、LGBの人には支援の必要は無い。GIDについても騒がないでほしいと主張している人は少なくないようです。



理想主義すぎて現実を無視しているし、なにより「支援」の意味を間違えている

rootportさんや、自民党の政策方針、それからたぶん杉田水脈さんの新潮45の記事について、明確な回答(反論)が示されているのがこの記事です。
「LGBT」と「性同一性障害」~トランスジェンダーを語る時、多くの人に最低限知っておいて欲しいこと~政治家、活動家、研究者の人たちにも読んで欲しいよ! - レインボーフラッグは誰のもの

(1)確かに「治療」は必要ない。むしろ「治療」を強制してはいけない

「同性愛」が「治療の対象とならない」とされたのは1990年代前後です。しかし「治療の対象ではない」ということですが、これは「同性愛者への人道的支援が必要ない」ということではありません。2006年の「モントリオール宣言」、2007年「ジョグジャカルタ原則」、2008年の「性的指向性自認に関する声明」では、特定の「性的指向性」「性自認」を持つ人々への人権保護と差別撤廃がうたわれています。

もともと「同性愛」が疫学的には「異常なもの」と分類され、「同性愛を治す(矯正する)」といったことが「治療」の名のもとで行われてきた事実があるからです。「治療」と言っても、実態は拷問であり、同性愛者のアイデンティティを否定し、弾圧し、人々のからその存在を引き離し、社会から排除、根絶しようとするものでした。


(2)しかし「福祉」「人権救済・保護」は必要である

日本の「性同一性障害」は、当事者が性別を変えていく上で必要とされる支援を行う「福祉」が目的であり、「性同一性障害」とは、言うなれば、当事者への医学的、法学的な「サポート体制」のことです。

その「アイデンティティ」自体が「障害」や「病気」ではなく、そのようなアイデンティティを持った人が社会で生きて行こうとするときに支障がある、病気や健康を害するリスクが高まる、という考え方は元々はこのような「同性愛」が辿ってきた「歴史」により、人々に発想され、理解され、現在は世界的な人権宣言のコンセプトになるまでに発達し、広まりました。

(3)「個人側の問題を否定していく」だけにとどまらずむしろ「社会側の問題」として認識し改善していくことである

当人たちの「アイデンティティ」を「異常なもの」「障害」とするのではなく、この者たちを「異常なもの」「障害」とする「社会」や、「人々の価値観、偏見、差別」がまず存在し、その「社会」や「人々の意識」を変えようとすること、当人たちの「アイデンティティ」を「尊重」し、「守る」という福祉、人道支援の見地からは同じ「枠組」が共有出来る、ということです。

これは、つい先日紹介した「障害の発達モデル」に通じるところがありますね。

(1)でとまってて(2)や(3)を考えられないと、冒頭の記事のようなことになってしまうのだと私は思います。


「個人モデル」「医学モデル」において同性愛者は異常や特別ではないというだけでは不十分

自分はLGBTではたぶんないと思いますが。発達障害の当事者として、似たような扱いはよく受けており、すこし毒を吐きますが。

いくら「発達に遅れがあるだけで私たちと違いはない」「特別扱いする必要は無い」ときれいごとを言われても、実際にそこに大きな苦労はあり、二次障害も自尊心の低下も、社会的な圧力も厳然として存在するわけです。
それについて「特別扱いするなんて気持ち悪い」とか「支援の必要は無い」とか言ってる人は、たとえ善意で言ってたとしても結局「見たくないだけだろ」「自分だけがきれいぶりたいだけだろ」としか思えないんですよね。見殺しにしてる。

いっちゃなんですが、リベラルを標榜する人はそういう「理想論が行き過ぎて現実を見てない」「見たいものしか見ない」人が多いと思う。

あなた方はそれでも良いかもしれないけど、あなた方がそうやって満足してる中で、低賃金やボランティアで、あなた方からしたら「汚い」部分をやってる人たちが居るんだよって話は大事だと思う。


ということで

冒頭で紹介された姿勢や、つまり杉田水脈さんの主張は、個人の意識の持ちようとしてならありえ無くはないが、およそ政策的な議論という点で考えたときにはやはり不十分というか「考え方として間違っている」ということがなんとなくでも伝わったでしょうか。

杉田さんの記事には、かなり多くの賛同者が居ます。これについて、杉田さんや、杉田さんの支持者がみんな差別を容認していると考えるのは不自然です。そうではなく、この人たちは、「自分はちゃんと差別に反対しているつもり」というところが厄介なのです。それでいて、よく考えないと、あるいはちゃんと知らないと、今回記事にしたような考え方にハマってしまうということなのです。

私自身、このあたりが良くわかっていなくて、杉田さんの発言は受け入れられないものの、ではどう反論するかが明確ではありませんでした。これについて、たとえば「障害の社会モデル」や「治療と人権保護の違い」などを知ってすこしだけ理解が進んだ気がします。

が、まだまだわからないことが多い。この問題は、非常に難しい。よく知らないままだと「善意のつもりで」LGBには支援は必要ない、といってしまったり杉田水脈さんの記事を支持してしまうこともありうる。これからも慎重に考えていかないといけないなと思っています。

まだまだ私ごときがこの問題について意見を述べるのは早い。もっと勉強していかないと・・・・・・。



ね、なんでもそうだけど。やっぱり敵味方がはっきりしてるわかりやすい世界なんてそんなにないんだよね。

私が「マルクスさん」や「嘘松」に代表されるように「物事の複雑なところを切り捨てたりデフォルメして、世論を煽って自分だけちやほやされようとする人たち」を毛嫌いしてる理由ってわかっていただけますか?

なぜ私は「女性の味方をしようという善意をもったマルクスさん」に強い反発を感じるのか - この夜が明けるまであと百万の祈り
「ゾーニングが必要」という言葉について - この夜が明けるまであと百万の祈り

もちろん「運動家」には運動家なりの制約や工夫がいるのはわかってます。だからこそ、「無責任な扇動屋」は滅びてほしい。