この夜が明けるまであと百万の祈り

私が元気づけられた出来事や作品についてのメモ。最近TED聴き始めました

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発達障害者の「自分のつらさをほかの人にわかってもらえないつらさ」について

「ヒラリー・スワンク in レッドダスト」 - この夜が明けるまであと百万の祈り

俺達には、「傷ついた」と主張する権利がある


https://web.archive.org/web/20160815160138/http://www.tm2501.com/entry/Dokusin_man-no-Bad_life
読んだ。
多分この記事むっちゃ反発受けると思う。視野の狭さとそれゆえの偏見・ルサンチマンミソジニーなどにまみれ、書いてる内容も的外れであり、まさにツッコミ大好きのはてなブックマーカーにさらしあげられて笑いものにされるためにあるようなものでありよくここまで負の要素が凝縮されている記事を書けるなと逆に感心するほど残念極まりない出来だ。


でも私はたぶんほかの人よりはちょっとはこの人の気持ちがわかるつもりである*1

後、何よりこの人のせいで発達障碍者躁うつ病の人への偏見が広がってほしくない。

なのであまり気は進まないけれど、少し擁護てきなことをさせてもらおうと思う。別に「診断」ができるわけではないので解説はできない。勝手に彼が伝えたかった点はこうじゃないかと想像するだけです。

確かに上の記事はひどいが、ちょっと共感するところもある。

大事なことなので二度言いますが、上の記事はひどい。

・自分の大変さを伝える努力もせず共感してもらえるのが当たり前だと思ってる甘えがあったり
・自分がかわいそうって意識が強すぎて他者への思いやりが欠片もないって言う意味で
・自分はクズだからどうなってもいいんだというふてくされた態度

などおよそ褒められたものでない。

だが、それだけ書き手が現実に絶望を感じてるのだということは読み取ってあげてほしい。*2


聴覚過敏など本当にしんどくて息苦しいのに、なかなかわかってもらえない苦しみはある

発達障害には聴覚過敏の苦しみは確かにある。だが、それがあまりわかってもらえないつらさがあるということはわかってほしい。

【体験動画あり】発達障害者の聴覚過敏の実例とその対処方法 - decinormal

①耳がやたら聞こえてるはずなのにしょっちゅう声がデカいと指摘される
→周囲にとっては「静か」と体感される環境でも、私にとっては「騒音下」で自分の声も聞こえないから、みんなも聞こえないはずと思って必死に声を張り上げていた… 耳の遠い人が声が大きくなるのと同じ理屈



②耳がやたら聞こえてるはずなのにしょっちゅう人の話を聞き返す
→常に騒音下で人の声を聞いている状態だから。音情報の取捨選択ができず、いつも混線したラジオを聞いているような感じだと思われる


③喫茶店などの店から外に出ると「胸がすっとする」
→空気が悪いのだと思っていたが、店内の騒音に耳が疲れていただけのことだった


④人混みに行くとやたらとすぐに疲れる
→五感、とくに耳が疲れやすいからだった



⑤音楽が好きなのになぜかコンサートなどに行ったり自分でプレイする習慣がない
→ものの1時間聴いただけで耳が疲れるから

私もこの傾向があって、さんざんバカにされてきたからそのつらさはわかる。発達障害者はこの点に限らず、いろんな点で「普通の人と同じができない」ことがある。


双極性障害の苦しみもあるならなおさらだ。双極性障害の苦しみについてはこちらの記事に書いた。
対人関係療法でなおす 双極性障害 - この夜が明けるまであと百万の祈り


そもそも、発達障害であることが判明するのが遅れると「自分が異常である」というのがわからない。「周りの人と同じ」はずなのに、「周りと人と同じことができない」というのは強いコンプレックスになる。発達障害であることの発覚が遅れた人ほど、人生に致命的なコンプレックスを抱えることが多い。そして、これらの原因は「生まれつき」なのだ。本人の努力や気合では解決できない。いったい自分が悪いのか?誰を怨めばいいのか?そういうのもわからない。

「ヒメアノール」他 犯罪者は意外と自分のことを被害者だと思っているかもしれない - この夜が明けるまであと百万の祈り

俺ってかわいそうだと思わない?だってさ、勝手にこうなっちゃったんだぜ?運がないとしか言いようがないだろ?


誰か一人でもいい。誰かに正しい理解を得られれば心強い。だがそれが難しい。強い孤立感を感じがちだ。むしろ家族などが身近な人に理解がない場合は頻繁に自分を否定され続けることになる。そうして制御できないフラストレーションがたまっていくものである。自身これでむちゃくちゃ苦労してきたし、何とかして周りにわかってもらいたいと思ってきたけど失敗してだんだん人に伝えるのが怖くなっていた時期もある。



彼の記事に「耳栓やイヤーマフを試したら」という人もいなかったし記事を書いた本人もそういう発想がないということが、この問題の根深さを感じる*3
感覚過敏と思い込み - うちの子流~発達障害と生きる

聴覚過敏の映像でもわかるように過敏や鈍麻は慣れや我慢や訓練ではどうしようもないものです。強い近眼を持つ人が慣れで見えるようにはならないのと同じ。そういう方が眼鏡やコンタクトを必要とするように聴覚過敏だとイヤーマフや耳栓、不快な場所を避けるなどのサポートが必要です。

自分のつらさを伝えようとしてもわかってもらえないという結果を繰り返すと「無気力」になるか「怒り」になる

「狂人」になりますか?それとも己が不幸であることを諦めますか? - この夜が明けるまであと百万の祈り

およそ、不幸を伝え得ぬというほどの不幸はない。彼は貧しかったから不幸であった。野心に挫折したから、あるいは女に裏切られたから不幸であった。このような不幸には理由がある。つまり告白すれば他人が耳を傾けてくれるのである。だが理由のない不幸(略)をどうやって伝えられるか。しかもそれが日夜生理的に耐え難いほどに身と心を責めさいなむとすればどうしたらよいか。このようにいえば、人はおそらくそれは狂人の不幸、むしろ単なる狂気にすぎないというであろう。だが、私はそのような不幸の実在を信ずる。信じなければ、夏目漱石の作品にあらわれた仮構の秩序は理解できない、という理由によってである。(「夏目漱石」)

当の主人公自身が、自身の投げ込まれてしまった状況をおとぎ話的だと痛みとともに認識するというのは、あまり尋常な事態ではない。むしろそうした性質(と見えるもの)は、他人への「伝え得なさ」の表象として読み解かれるべきである。本来の気持ちの内容ではなく何よりその伝え難さこそが実質なのだ、と言いたい

「世の中クソだな」って思うことはあるかもしれないけど、それを言ったら負けだと思うことにする - この夜が明けるまであと百万の祈り

しらねえぇよ!これは俺の苦しみだ!俺の持ち物だ!持ってねぇやつがごちゃごちゃうるせえよ!!俺だって…普通がよかった。でも、こんなこと話せるやつはいない。わかってくれるやつなんて、一緒に泣いてくれるやつなんている訳がない!

自分でいうのもなんだけど、数年前の私はいまより卑屈さがはるかに強い人間だった。「誰も私のつらさをわかってくれない」とか言って自分が世界で一番不幸そうな顔をしてる「よくある人」だった。まぁそれで、上の記事書いてる人みたいにいろんなものを逆恨みとかもしてたかもね。



自分のつらさを伝えたい、可視化したいと思うあまりに「リストカッター」「(ブログなら)精神的リストカッター(一部は炎上ブロガー)」になる人たちも少なくない

どんなに毎日が生き辛いか、苦しいかって、心の中にあるだけで、誰にもわからないことじゃないですかあ・
鏡をみたら健康そうな私が映ってるし、世間的に見たら貧乏ってわけでもないし。美味しい物だって食べられるし、旅行だってできるし。
こんなに辛いのに、外からだと、もしかしたら幸せに見えてるのかもしれない!そう思うと、本当に悔しいですよねえ。
そういうとき、傷を付けて、血みどろでボロボロになった自分の腕を見ると、ちょっとだけ心がおちつくんですよねえ。
自分の感じてるものと、実際の姿が少し近づいたような、ギャップが少し埋まったような、そういう安心感があるんです
だから、もし身体のどこかにメーターがあって、その人の気持ちの苦しさとか楽しさを正確に表示出来てたら、
きっと私はこういうことしなかっただろうなぁって思います。メーターを見せればすむことですから。(キラ☆キラ)

ところで私は当時ガリガリだった。とにかくお腹が空かなかったのとそれ以上に自分にはものを食べる資格がないと思っていたからだ。他にも自分は〇〇をする資格がないだとか〇〇をしたら恐ろしいバチが当たるといったシリーズが自分の中にたくさんありこれは今でも残っているだろうしまだ築けていないものもあるだろうと思う。そういった食生活だったため当時皮膚はいつもボロボロで傷は全然治らずすぐに低温やけどになる。人一倍寒さには弱く、たまに何かを食べるとお腹を壊してしまう。そんな感じ。しかもこうやってボロボロになった時にやばいと思うんではなくて自分はその時嬉しいと感じていた。そうやって傷つくことによって何かが免除され人が私を承認するハードルが下がって居場所を与えてもらえるなどと思っていたのだ。もちろんそんな事は無いのだけれど
後になって、自称する人の体験談で心の痛みや実態がなくてよくわからないけれど、体を傷つけた痛みはわかりやすいからそれで落ち着くんだと言っているのを読んですごく納得したことがある。心の痛みは見えないしこれを言語化することは時間と労力が要る作業だしそれよりも目に見えて因果関係もはっきりしている痛みを作ってそっちを見てる方が落ち着ける。手っ取り早くスッキリできると思ってしまうのだ。

http://h.hatena.ne.jp/tyoshiki/228177084433766730

あまりの「伝わらなさ」に愕然とした人はその人の現実(を構成している人間関係)と向き合えなくなる。必死に伝えようとしたのに、先に現実から拒否されているという感覚が付きまとうからだ。自分が拒否されていると思うから、すごい周りに対して敵意を向けたりおびえたりするようになる。

こういう引用を出そうと思ったらいくらでも出せるくらいには、私は今までの人生で結構傷ついたり、同じ気持ちの人を探して求めて、この問題にどうやって向き合って生きていけばいいのかずっと考えてきたと思う。





だから被害妄想が強い「まで」は許してあげてください。そのくらい実際「生きづらさ」に耐えてきた部分はあったかもしれないので

TM2501さんも私とは違う形で強い苦労があったと思う。 だから、できたらここら辺までは許してあげてください。

貧困も、(結婚ができずに)子どもが育てられないことも、ダサいオッサンのまま死んでいくこともすべて「リアリティ」を帯びてきた。怖くて怖くてたまらなくなった。 あなた方の気まぐれな一言で、こっちはお釈迦!あなた方は像。こっちはアリンコ。あんたらが気を使ってくれなきゃ、踏み潰されるのはいつもこっち。

これは被害妄想だというのは簡単だし周りの人から見たらまごうことなくそれだ。だが、彼の内面では現実が実際にこういう恐ろしいものになってしまっていることは否定できない。

『発達障害35歳限界説』とは? : 凹凸ちゃんねる〜発達障害・人格障害・生きにくい人のまとめブログ〜

別に正式な理論じゃないが発達障害35歳限界説というのがあって、発達障害で安定した定職につけないと、遅かれ早かれ人生に行き詰まりを感じるようになってくる。「誰にも理解されず」「何物にもなれない」ことの恐怖が強すぎて「誰かのせいだ」ということにしないと耐えられなくなってくる。ようするに、問題は自分の将来像に確固たる道筋が見えないことだ。そのことが怖いからついつい周りに当たり散らしてしまうわけだ。

もちろん、だからといって他人に思いやりのない発言をしたりかまってちゃんで暴れるという幼児じみた態度は問題でありその点は大いに批判してもらってよいが、これについても、発達障害に対する理解やケアは十分ではなく、その結果長年の積み重ねでこうなってしまうことは珍しくないということだ。

そんなわけで、書いてることはほんとクズだしいい加減にしろっていいたいけど、そのつらさをわかってもらいたいというTM2501さんの切実な気持ちだけは否定したくないとは思ってるんだぜこれでも。



私自身としては、適度にあきらめつつ付き合っていくしかないんじゃないかなって思ってる。妥協ってそんなに悪いことなのかな?

でも、TM2501さんの人生はTM2501さんのものだから私がどうこうしろっていうことはできない。自分で考えてください。
私自身の考え方を示すと、私はこんな風に生きられたらいいなって思ってる。

「幸福に生きて見せるぞ!」という意志力 - この夜が明けるまであと百万の祈り

「控えめ……か」…本当は、私は極度のあがり症だから、なるべく目立たないようにしてるだけなのにな。幼いころには遊にさんざんからかわれたこのあがり症だが、今は半ばあきらめているのだった。一時期は自分なりに解決法を調べてみたけれど、あがり症というのは簡単には治らないみたいだから。だから、うたははこのあがり症を、ありのまま動じずに受け入れることにした。


あがり症を治すことはできない。だけど、たとえそれが不治の病であっても、上手くつきあうことはできる。糖尿病みたいなものかな?とうたはは思う。病気そのものは治らないけど、発症は抑えられる。私のあがり症はそんな感じ。だから私は何事も目立たず、控えめに生きてゆく…
クラスでも変に波風は立てない。宿題だって言われればすぐに見せてあげる。私はただ淡々と、だけど着実に日々を過ごして、少しでいいからそれを自分の糧にする。それが私、沢崎うたはの生き方。地味だけど、私の好きな生き方。そうすることで、このあがり症とも仲良く出来る。
不治の病であっても、うまくつきあっていける……だから私は今日のこの日もいつもと一緒、目立たつ控えめに過ごすだろう。


○○○○なんて関係ない。そんなことで私の日常は変わらない。○○○○なんかに私の日常を邪魔させない。
(中略)
私は、ホームルームが終わった後の十分だけの休憩時間で、予習を済ませられるだろう。だからこれから授業中に当てられようとも抜き打ちテストがあろうとも、動じず涼しい顔で受け入れる。だから、私は今日もあがらずに過ごすんだ――――

「人生に苦難してきたからこそ妥協できない」っていう選民思想は私にはないし、ほかの人から称賛されるような人生はもう目指せないとわかってる。私が理想としてるのは「スキエンティア」のいっぺんに描かれてたようなささやかな人生だ。これをベースにして、まぁいろいろカスタムしていければそれでいいのかなあと思ってる。




余談 このブログについて

私のブログっていったい何やってるの?ってたまにじぶんでもよくわからなくなるのだけれど、自分の中で抱えてる問題を自己解決したり、そのためにいろいろ気に入った言葉や物を収集していく場だと思ってます。

ほかの人にとってはブログは「メディア」なのかもしれない。けど、自分にとってはこのブログは倉庫みたいなもんです。たまに思ったことがあった時に、たしかこういう材料あったなぁって取り出せるようにしとくためのもの。そういう意味で徹頭徹尾自分のことばかり考えていて、読者にはあんまり興味がない話が多かったりして親切じゃないかもですね。すみません。

こんなブログですが、なんだかんだ読んでくださってる皆様にはとても感謝しております。一人で書いてるとはいえ、やっぱり読者の方がいるってことはとてもうれしくて、それが続ける糧になってます。本当にありがとうございます。これからもよろしくお願いします。



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私ってホントに何度も何度も同じこと繰り返し書いてるんだよなぁ……

*1:発達障碍を支援する仕事をしてます

*2:たとえ拙くてもその「つらい」という気持ちを真剣に書けばみんな共感してくれただろうに。自分のつらさと向き合うのを避けてその怒りをほかの人にぶつけてることについて「情けない」と感じる程度の矜持はないのだろうか

*3:TM2501さんは発達障害について医師などと相談ができない環境だそうが、それならそれで、世界に対して恨み言を述べる前に何かしら対策を周りから聞いたりできることはあると思うのだが自暴自棄になっているのだろうか